女性がそれに気づいたのは、電車に乗ってしばらく経ってからだった。
夜の帰宅ラッシュの時間。運良く空いた隅の席に納まると、空腹のお腹を宥めようと丸まっていた。混雑した車内はドアが開くたびに乗客が増え、立つ人で隙間がないほどだった。
どこかの駅で乗ってきたのだろう。人の森に遮られ、姿は見えなかったが、隙間を縫って届いた匂いが鼻をくすぐった。
どこにいるのか。本当にそれなのか。匂いのありかを突き止めたくて辺りを見回すが、立ち並ぶ人が壁になって視界を遮る。
見えない。でも、確実にいる。
この確かな香りは、空腹から生み出された幻想ではないはずだ。
ほわんと立ち上るソースのしょっぱい香り。鰹節は熱々の蒸気で少し湿ってる。
漏れ出る湯気が鼻の毛をそっとなでる。吸い込むたびに、ソースに濡れて湯気に踊る鰹節の残像が目の奥にくっきりと見える。
絶対に誰かあれを持っている。見える。鰹節には青海苔もかかっている。少しの青臭さがある。
マヨネーズも、きっとかかってる。知らんけど。マストでしょ。
そして、、
ほらいた!
目を皿のようにして見回していると、人の固まりが移動して空間がぽっかりと空いた一瞬、某店の赤い文字が踊る紙袋を持った50代くらいの女性を目のはじに捉えた。
ビンゴ!やっぱりアレだったか。
こんなに人がいるところで匂いを撒き散らしている方が悪い。どれ、少し吸ってみよう。
すぅ〜。
はぁ〜。
まるで目の前にあるかのようにありありと丸く艶めいたあれが見える。
絶対に熱いから、まずは小さなひとかじり。
皮が柔らかくてすぐに中の具が顔を出す。崩れる前に口に放り込む。
あつつっ。
溢れ出てくるとろとろのマグマで口の中が火傷しそう。いや、火傷してもいい。頭では痛みを分かっていても、この口福に次の一齧りを止められない。
流れでる液体を、空腹のこの口は喜んで受け入れる。
ホッ、ホッ、ホッ。はふい、はふい。
ほとばしる水のように頭から指の先まで幸せが走りわたる。
今日の生地はモチっと寄り。いい、いい。それにソースとマヨが合わさって甘じょっぱい。結局これの旨さなんじゃないかって思っちゃう。
やっぱり青のりも、鰹節もマヨネーズも全載せだった。そうじゃなきゃね。
いいよ。中もしっかり存在を感じる主役が入ってる。コリコリといい食感だ。
はあ。空腹においしい匂いは人を嫉妬させるなあ。吸い込む鼻が止まらない。おいしい匂いはぜーんぶ私が吸い込んでやる!
ふと気づいたら、もう自分の駅だ。匂いに満たされたからか、心なしか体があったかくなっている。
いい日だな、ありがとうおばちゃん!
ソースの匂いをまとわせて、女性は軽やかに電車を降りた。
家に着き、さて何を作ろうかと冷蔵庫を開けたところで手が止まった。お腹が空いていない。
おかしい。電車に乗る前は動くのが億劫になるほどの空腹だったのに。今はむしろ少し食べ過ぎの気さえする。
ふと下を見ると、胸元に何か付いている。茶色く薄い、かんなで削った木くずのようなちり。それは、どうも鰹節に見えた。
ああ、さっきのあれか。
ハッとした。
驚いて舐めた唇に甘じょっぱいソースを感じた。舌の先は火傷したように痛みを発している。
でもーー私は何も食べてない。
「おいしい匂いはね、人を惹きつけるだけじゃないんだよ」
「あんまりいい匂いをさせてると、お腹が空いた人に全部吸い込まれて食べられちゃうの」
かつて料理上手の祖母が言っていた言葉を思い出した。にんまりと笑った祖母は、ぴっちりと料理に蓋をしていた。


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